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黙々と、ただ石に番号をうつ
その行為の数、20余万
祈りにも似た表現行為。
これが、「石の声」の呼びかけ文である。
沖縄、米軍普天間基地に隣接した佐喜眞美術館前広場に於て1996年6月15、16日で236.095個の石に連番を書き入れ、積み上げていくという行為が開邦高校芸術科の呼びかけで、行われた。
この数字は、96年時点で把握されていた沖縄戦戦没者数である。しかし、二日間で終えたのは約半分。結局翌週の22、23日まで続行。様々な呼びかけで一般の参加者も増え、延べ六百人が参加。終了は23日、沖縄戦終結の日である「慰霊の日」。正午に、全員で一本づつ線香を供え黙祷を捧げた。
猛暑の中、石を拾い、フェルトペン等でひたすら番号を書き入れていく。極端なほど単純な作業である。しかしなぜ、これほどまでに多くの人々が四日間にわたり参加したのだろうか。
石は「番号」という命をこめられ、広場の中心に積み上げられていく。はじめは、赤瓦四枚で最初の「1」を囲み、徐々に瓦を増やしながら、その中へと積み上げられていく。 やがて、その命のカタチは円錐上に小山となり、日に日に肥りだしていった。嬉しいような怖いような・・・、カタチは徐々に量感をもちはじめ、広場をのみこみはじめた。しかも、雷雨で水のはった広場に、夜、うっすらと小山が水面に映しだされ、現実の上唇と水面の下唇が重なり、ものいいたげな表情を闇の中にみせた。
どうですか、生徒たちは石の声が聞こえたでしょうか?・・・これが各マスコミからの共通した質問だった。
結論から言うと、「そんな、単純な問題ではない。」なぜならば、我々が耳をもっているという前提が無いからだ。今迄知識として沖縄戦戦没者数を知っていたに過ぎないし、歴史を暗記していたに過ぎないのだから。
ただ生徒も私も、石を積み上げてみて感じたことは、「耳をつくる行為」だったように思う。これは、他の参加者にも共通した思いであろう。
最終的に、この表現行為が平和教育と結びつき「新しいかたち」と評されたが、着想は、もっと芸術行為そのものに重きをおいていた。「なるべく単純で膨大な繰り返しの作業」を通して自分そのものと向き合うことだった。作業が単純であればあるほど、人はそのリズムの中に入り込み寡黙になる。黙らざるをえないと言うことは、自分と向き合い対話する。 それが、炎天下、流れるような汗、雷雨にうたれ石に番号が書けない、様々に変化する状況下、生徒たちにも変化がみられた。生徒だけでなく一般の方にも。積み上げる石を納骨するようにそっとおく人や、小山のそばに座り込み撫でる人、ボーと日が暮れてもその場から動けないでいる人。様々である。
これらの出来事をみて思うことは、単純な表現行為が「祈り」になり、石コロが戦没者一人一人と重なり、「数」がより実感をもった「量」に変化し、「観念」が汗、手のまめ、疲労、身体全体を通して考えた「事」になった。ほんの少しだけだがそう思った。
芸術が力を持ち、現実とかかわれるのは、人の生き死にと、深くかかわった時なのだと・・・闇の中に積み上げられた「唇」がほんの少し揺れ、囁いているのを、見逃さない目と、その声をきく「耳」を、積み上げたいと思った。
追記:半年後、「囲い」は取り除かれ「石」は日々、広場に還っている。