金城満の仕事,沖縄の芸術家,絵画,写真,音楽,美術教育,平和教育,石の声,佐喜眞美術館,画廊沖縄,表現行為,免疫,琉球大学教授

【内容の要約】

 インターネットを利用して、全国的に呼びかけた参加型アートプロジェクトと平和教育の試みである。沖縄戦では日米あわせ20 万tもの砲弾・爆弾等が使用されたといわれる。それらの鉄と、釘とを対応させ「暴力としての鉄」がテーマである。参加方法は木片に釘を、打ち込んでいく表現行為で、「鉄の記憶」と呼び1 年間続いた。その間、進捗状況を公開し、最後は火葬する事で20 世紀の暴力を永眠させることを目的とした。


呼びかけの趣旨

 木片に釘を、ひたすら打ち込んでいく表現行為。それを「鉄の記憶」と呼ぶ。
沖縄戦では、その激しさを「鉄の暴風」と形容するように、日米あわせ20万tもの砲弾・爆弾等が使用されたといわれる。この量は沖縄戦戦没者23万余から考えると、人ひとり1tの「鉄」で殺害したことになる。またその5%の1万tが不発弾として残され、戦後様々な不発弾事故が起きてきた。今日まで不発弾対策は進められてきたが、未だ3千tが地中に眠っているとみられている。
 ここでは砲弾・爆弾等と釘とを対応させ、「暴力としての鉄」をテーマにする。あえて、1本数gの釘を打ち込むことで、行為の本質を考え、人間の中に「眠っているもの」を確認するというものである。また同様に、戦後の課題として残された、平和資料館問題、基地移設問題等も、多角的に見据えていく機会として、この表現行為を行う。

方  法

1.ここでの木片とは板、間伐材、台風で折れた枝等何でもよく、釘も種類やサイズを問わない。 
2.数量は、沖縄戦での不発弾を元に展開するが、明確な数字的目標を設定するのではなく、「膨大な物量」ととらえ、出来うるかぎりの行為を繰り返すことで、「加害と被害」の両面を考えていく。
3.インターネットで発信、県外へも参加を呼びかけ、進行状況を公開する。この様な公開進行型の表現行為が もたらすと思われる、波及効果を表現に取り込む。
4.最終的に集められた「鉄の記憶」は、参加者、数量、地域等のデータの記録を添え展示(展示場所は調整中)。その後、木片の大部分は火葬。焼き残った「釘と灰」は記録とともに、「加害の痕跡」として佐喜眞美術館に展示、収蔵される。







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期  間

 今の段階(1999年10月末)では2000年5月初旬までを釘うち期間とし、その後の予定は、開邦高校ホームページhttp://w1.nirai.ne.jp/kaiho/ にてその都度連絡呼びかけを行い、進行状況を公開していく。

参加方法

1.上記の期間、いつでもどこでも個人でも団体でも可能で、趣旨をふまえ、ひたすら釘を打ち込む。
2.最終的に「鉄の記憶」は、次の事項を書き込んで直接持ち込むか、郵送。 ・住所氏名(書ける範囲でかまいません。例:大阪府、比嘉)団体は団体名を直接木片に書込む。・釘の本数を、直接木片に書込む。・取り組みの写真等を添えてもよい。

釘を打ち込むための間伐材

校内中庭の打ち込み材

集中打

手に伝わる感覚

進捗状況をネット報告

ホームページでの経過報告



定期的に進捗状況の報告を更新して行った。
以下_________________
 ネット上で呼びかけを行い、趣旨に賛同してくださった皆さんから沢山の支援を頂きました。ここでは経過報告と連絡をしていました。


その中からの抜粋です。
●1999 年12 月
「呼びかけ文」の趣旨で開始
●2000 年2月
開始から3 ヶ月が経過してのお知らせ
現在の進行状況は次のとおりです。
・このホームページの写真でも分かるとおり地道に打ちつづけられています
・問い合わせ、参加の意思表示はあるものの、実物の郵送や持ち込みはまだありません
・マスコミが3社報道、呼びかけをしてくれるそうです
・参加方法が分かりにくいとの問い合わせと、やった実感から下記の様に方法を変更しました

参加方法の変更

 パンフレットの参加方法の2.に「釘の本数を、直接木片に書込む。」とありますが、釘の本数を数えることのマイナス面の方が出てきました。例えば、数のカウントの方にだけ気持ちがいって、「加害」の本質を考えるという面が弱くなる店です。従って、打った釘の数を数えるのはやめ、「釘を打ち込む行為」そのものの重要さに目をむけることに改めます。どんどん打ってください。尚、100、1000 と単位を設定してやっている場合は、それでもかまいません。


●2000 年6 月8 日
開始から半年・・・
この表現行為は99 年10 月末に開始し、2000 年6 月「慰霊の日」あたりを終了予定として進めてきました。
さて、半年たち、現在の進捗状況を幾つかあげると次のとおりです。
⑴本校内でも積極的に、熱心に釘を打ち続けているという状況では ありません。その理由として、予想に 反しそんなに沢山打てないということです。あくまでも「加害行為」を想定しての表現なだけに、ある程度を越えたとこで手が止まってしまうのです。



⑵開始した半年前と大きく変わった点として17 歳前後の年齢が起こす事件です。今までとの大きな違いは連続性でしょう。中には、「人を殺す経験をしてみたかった」等。 「鉄の記憶」での加害が、あえて加害側に立つことで被害の再認識と、誰もが持ちうる暴力性の自覚に目的があったわけでが、ここでは経験そのものが目的だったり、主張のみが意図だったりと、一見異質に思えますが、簡単に結論づけたりは出来ませ。むしろ「暴力の純度」が高まっていると考えることも出来ないでしょうか?
⑶本校では文化祭や、「慰霊の日」を前に、更に掘り下げたテーマで展開できないか模索中です。その一つが本校図書館で例年行っている、沖縄戦の写真パネル展との合同企画です。

期間延長と今後の予定について

 前記の進捗状況からも明らかな様に、まだ中途半端な取り組みになっています。これは、ある意味では正常な反応とも考えられます。何故なら加害行為としての釘打ちを頑張ったり、ハリキッタリ出来る事自体この表現行為の趣旨に反することにもなるのですから。そんな矛盾を孕んだ行為なだけに、もう少し時間をかける必要を感じています。そうは言っても期間を、開始からちょうど1 年後の2000 年10 月末までとし、最終的には火を放ち、灰と鉄に変えることで、20 世紀の暴力への「火葬・納骨」の テーマを含めたいと考えています。
 その後、佐喜眞美術館へ灰と釘を展示保存してもらう計画です。
賛同してくださっている皆さんへ今後の予定でもふれた通り引き続き行ってください。中には6 月末の文化祭で取り組みたい等の希望の学校もありました。また、下記のように取り組みの写真等も送っていただければ幸いです。
全国各地からの反応名古屋市にある 障害者・友だちの会「愛実」より手紙、写真、釘木片届きましたので紹介させていただきます。

火葬式

 約1年間行ってきた「鉄の記憶」を火葬する事で20 世紀の暴力を永眠させることを目的とした式である。火葬の対象であり、喪主でもある自分自身。その中にも潜む暴力性を葬り去るために参列者は、線香を手向け祈りを捧げる。

火葬1

火葬2

一夜開け、まだぬくもりのある「灰と釘」をひろう

校内での展示1

校内での展示2

「鉄の記憶」期間を終えて

 お礼とメッセージ

 「鉄の記憶」に一年間ご賛同いただき感謝しています。直後のコメントは差し控えたいと思いますが、火葬を終えてみたものは、被害である木片は「灰」になり、加害である釘は原形をとどめた「鉄」になったことです。さらに今後、映像としての記録をまとめていく中で考えていきたいと思っています。有り難うございました。

 下記の生徒代表のメッセージからもこのテーマの難しさが伺えると思います

鉄の記憶「火葬式」メッセージ 

美術科代表2年 喜友名綾子 

 美術コース二年生だけではありますが、話し合い、みんなが「鉄の記憶」から感じたことをできる限り、私の言葉、またはみんなの言葉からそのまま抜粋し、箇条書きではありますが、述べさせていただきたいと思います。    

釘を打ち込むことを言われた私たちと、釘を打ち込まれる木々。
釘を打つことへの疑問。
加害者への怒り。
ただ打ちたいと思ったこと、なんか楽しい。
打ち続けること。打ち続け、我を忘れること。
残虐への憧れと興奮。
楽しんでいる自分。
なぜか冷静な自分。
今まで潜んでいた冷酷な自分の発見。
木片が人間に見えてきたとき、よぎる罪悪感と明日にはそれを忘れる自分。
被害者に共感できない自分。痛み、嫌になるのに錆と血で汚れる手。
暴力性、攻撃性、日常的、見失いそうな自分。
気が狂いそうなほど止まらない感情。
それでも思いとどまる理性。残酷でない自分を望むのは偽善か。



 これが「鉄の記憶」で感じたものの一部です。 私たちはひとえに「戦争は悪いことなのでやめましょう。命とは尊いものです。」という答えを掲げるだけでいいのでしょうか。事実であるその答えを何度も繰り返し教えられてきましたが、私たちはそれをどれほど実感しているのでしょうか。きっと、それはあり得ないのだと思います。頭で理解することしかできないのです。これから先も本当に知っているのは被害者だけです。加害者の気持ちも同じです。私たちがどれほど人の命を奪う行為について考えたところで、加害者の気持ちになることはできないのです。それは「鉄の記憶」をおこなった後も同じです。私たちはみんなで結論を探しましたが、答えを出すことはできませんでした。自分たちが被害者になると同時に、加害者にもなりうることを知り、複雑な気持ちになりました。未だにうまく言葉に表せない気持ちが残っています。 
 結局、私たちには分からなかったのです。それが話し合って出した私たちの結論であり、答えでもあると思います。そんな答えが出たことを、自然なことだと受け止めてもらえれば幸いです。しかし、決して「鉄の記憶」が何の意味も持たなかった訳ではありません。私たちはひたすら問題に向き合い考え続けました。それで最終的には誰も釘を打たなくなりました。釘が打てなくなったみんなのことを、私は単純に愛おしいと思いました。今からみんなの中に潜んでいた狂気を火葬します。みなさん、私たちの中の暴力的な心を笑顔で葬りましょう。今日は一つの区切りでしかありません。これからも私たちの中にある狂気は生まれ続けます。そしてこれからも私たちはそれに向き合い、考え続けていきましょう。

以上、開始から一年、2000年12月火葬式までの記録です。



考察

 〜構想から終了まで約1年のプロジェクトを振り返る〜
1996 年に沖縄戦戦没者23 万余の数字を石に刻む「石の声」を行った。「石」から「鉄」へ素材の違いはあるが、共通したテーマをいくつか挙げる事が出来る。


⑴沖縄の戦後史と未解決な諸問題
まず遺骨未収集、基地、不発弾処理、などの直接沖縄戦が残した問題と、その後のハンディキャップが一因の経済や教育の問題。
⑵「加害と被害」
石にナンバリングする静的な行為と、釘を打つという動的な行為。いづれも人の内面に潜む多様な感情を行為そのものから見つめようとした。

⑶表現行為と平和教育
被害や加害の歴史を消し去ろうとするのではなく、表現行為を通して自己との対話を深め、自分の内面に気付くきっかけを石と鉄に託し、そして人間の本質を見つめる機会とした。「鉄の記憶」の「石の声」との相違点はインターネットの可能性をアートプロジェクトで実験した点である。インターネットで全国の参加者を募り、木片に鉄の釘を打ち込む表現行為と沖縄戦での「鉄の暴風」を重ね合わせて呼びかけた。


  最後に、表現行為が空間や時間を超えて共有出来る事が証明出来た。火葬して残った灰と釘は「加害の痕跡」として校内展示により、一年間の表現行為を全校生徒で振りかえった。その後、佐喜眞美術館へ展示され、「鉄の記憶」は「加害の痕跡」として保存されている。

佐喜眞美術館へ納められた火葬後の「灰と鉄」

「鉄の記憶」

「迷い鯉」

「石の声」

「壁画制作」